よみもの
文献や関連サイトの内容紹介や、メンバーによるエッセイなど随時掲載していきます。
紹介コーナー
【01】いまここにある過去 小川伸彦

デュルケームの聖なるものに関する視点などを活かしつつ、これまで<文化遺産の社会学>に関心を寄せてきた筆者ですが、この科研費研究を進めるうちに、いまさらながら気づいたことがひとつあります。それは、文化遺産論というものが、モノ論やシンボル論、アイデンティティ論や他者論などであると同時に、大きくいえば過去表象論でもあるということです。
そういう視点で海外文献を渉猟(というほどでもないですが)してみると、現代人の過去観についてや、文化やメディアにおける過去のありかたについての研究の蓄積がかなりあることがわかってきました。そこで、この分野を手掛けておられる方には周知かと思いますが、入手できた先行研究を3冊、コンパクトに紹介してみたいと思います(邦題はいずれも仮訳)。
まず1冊目は、Jerome de Grootによる『歴史を消費する』です(2009年に刊行後、2016年に第2版)。紹介文には「本書が検討するのは、同時代のポピュラーカルチャーにおいて"歴史"というものがどのように働いているか、である。コンピューターゲームから昼のテレビ番組まで、文化にかかわるものを幅広く分析することを通じて、本書は、いかに社会が歴史を消費しているか、および、この種の消費を読み解くことが大衆文化と表象に関わる諸問題を理解するのにいかに役立つかを探索する」とあります。その構成は、<第1部:ポピュラー歴史家、第2部:デジタル化された歴史、第3部:歴史を演じる/歴史で遊ぶ、第4部:テレビの中の歴史、第5部:文化ジャンルとしての「歴史的なもの」、第6部:物質的な歴史>となっていて、包括的な目配りのよさが特徴です。ちなみに、文化遺産やミュージアムについては、最後の第6部で触れられています。

2冊目は、分析対象を特にテレビに絞ったE. Bellと A. Grayの編集による『歴史のテレビ化―戦後ヨーロッパにおいてメディア化される歴史』(2010年刊)です。全16章に序文と結論がついたバラエティーに富む内容は、欧州各国の事例をカバーしており、テーマも、歴史ドキュメンタリー論や伝記番組論・歴史ドラマ論など多彩です。たとえばフランスにおけるナポレオンの扱われ方を論じた章を担当したIsabelle Veyrat-Massonは、研究の視座として、「テレビというものは、共有されたナショナルな語りの構築において基軸的な役割を果たす。そして、パブリックな空間と文化的圏域との関係の特質に影響を与える」(p. 97)としています。なお、編者による序文の冒頭には「過去表象の分析は急速に発展しつつある研究分野である」とあり、文献表には1970年代のものもふくめさまざまな先行研究が掲げられている点も参考になります。

最後に紹介したいのは、R. RosenzweigとD. Thelenによる『過去の現・在:アメリカの生活におけるポピュラーな歴史利用』です。本書の最大の特徴は、すでに紹介した2冊のように文化コンテンツの中に歴史や過去の用いられ方を探るのではなく、さまざまな属性やバックグラウンドをもつ一般の人びとに、生活や意識のなかでの歴史の位置づけを直接聞き取り調査している点にあります。たとえば過去をめぐる行為や経験については、<過去12か月の間に次のことをしましたか?>として、「家族や友達と写真を見たか/思い出を残すために写真やビデオを撮ったか/過去に関する映画またはテレビ番組を見たか/歴史博物館や史跡を訪れたか/家族の歴史を調べたり、家系図づくりをしたりしたか/日記を書いたか」などの設問がなされています。歴史的知識の源泉として信頼できるのはなにか/だれか、といった問いもあります。調査が実施されたのは1994年で、刊行された1998年からもすでに20年以上が経っていますが、調査に関する情報をフォローアップするサイト(2022.11.07最終閲覧)は今も健在です。
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まだじっくりとは読み込めているわけではありませんが、過去や歴史をめぐる文化コンテンツとその受け手との関係をどのように描きだしているかがひとつのポイントだと考えています。文化コンテンツが人々の意識や感情を作り出すいっぽうで、人々の意識や感情が特定の文化コンテンツを生み出す(=制作を促す)……。そんな相互的・循環的な影響関係のあり方を、データに基づいて論じているような研究に出会いたいものです。そうすれば、ある社会の集合意識や情動のあり方が、過去に関する集合表象とどのように関わっているかも少しずつみえてくることでしょう。
(2022.11記)
【書誌情報(紹介順)】
- De Groot, Jerome 2016, Consuming History: Historians and Heritage in Contemporary Popular Culture (2nd edition), Routledge.
- Bell, Erin and Ann Gray (eds.) 2010, Televising History: Mediating the Past in Postwar Europe, Palgrave Macmillan.
- Rosenzweig, Roy and David Thelen 1998, The Presence of the Past: Popular Uses of History in American Life, Columbia University Press.
エッセイなど
【02】ストリートピアノ雑感 川本彩花
昨年12月、第26回奈良女子大学社会学研究会において、「社会・地域と関わる音楽プロジェクトをめぐる研究動向について」の研究報告を行った。この研究会は、対面とオンラインとを併用したいわゆるハイブリッドのかたちで開催され、私は対面にて参加・研究報告を行うため、会場である奈良女子大学を訪れた。ここ数年間、新型コロナウイルス感染症の感染拡大の影響により、同研究会はオンラインでの開催が続いており、対面を取り入れての開催は久々であった。私個人としても、奈良を訪れたのは約3年ぶりとなり、懐かしいような、しかしどこか新しくなったような駅やまちの様子などを目にし、感慨深い気持ちになった。
上記のような研究報告に加えて、現地調査も進めているのであるが、そのようななかで最近、各地の駅やまちなかなどにおいて、「ストリートピアノ」を見かけることが増えたように思う。公共スペースに設置され、誰もが自由にふれて弾くことのできるピアノである。なかには、カラフルに装飾・ペイントされたピアノや、華やかな雰囲気を醸し出すグランドピアノなどもある。また、演奏され鳴り響いているピアノや、演奏されるのを静かに待っているピアノなど、そこには様々な光景があり、興味・関心をもって見ている。もっとも、「ストリートピアノ」を見かけることが増えたように思うのも、この科研費研究において、とくに「未来への情動:活路としての音楽」の研究テーマに取り組んでいるため、こうした音楽にかかわるモノ・コトに目が留まりがちなところもあるのかもしれない。(なお、実際には、コロナ禍において、一時的にせよ演奏不可となったケースも少なくないようである。)
誰もが自由にふれて弾くことのできる「ストリートピアノ」であるが、それでは、こうした「ストリートピアノ」の設置が各地で進められるということは、社会学的に考えるとどのようにとらえられるのだろうか。あるいは、そこにはどのような可能性が考えられるのだろうか。たとえば、日常生活のなかにおいて、「ピアノ」という楽器に実際にふれる、弾いてみる、楽しむといった機会が広がり、ひいては、音楽文化にさらに身近なかたちで接することができるといったことがまず挙げられるだろうか。
そのようなことにも思いをめぐらせつつ、この「ストリートピアノ」をめぐる光景は、いま取り組んでいる「未来への情動:活路としての音楽」の研究テーマを深めていく際にも示唆を与えてくれるもののひとつであるようにも思えるのである。
(2023.2.1記)
【01】社会を成り立たせるもの 白鳥義彦
「同じ信仰をもつことなしに社会は繁栄し得ず、というより、そうでなければ社会は存続しない。なぜなら、共通の観念なくして共通の行動はなく、共通の行動なくしては、人間は存在しても社会はないからである。社会が存在するため、それ以上にその社会が繁栄するためには、すべての市民の精神が常にいくつかの主要な観念によってまとめられ、一つになっていなければならない」。エミール・デュルケーム(1858年-1917年)による語りとしても通じそうなこの言葉は、実際はアレクシ・ド・トクヴィル(1805年-1859年)が『アメリカのデモクラシー』(松本礼二訳、第二巻(上)、26頁、2008年、岩波文庫。原著刊行は、第一巻が1835年、第二巻が1840年)で述べているものである。社会がいかに成り立つかという問題は社会学における根本的なもので、それぞれの論者がそれぞれの立場から論を展開しているが、社会が存在するためにはその成員が共有するものが必要だという、集合意識にも通じるここに見る視点は、デュルケームとトクヴィルに共通しているものである。社会学の歴史のなかでは、ともに中間集団の重要性を論じた者としてこの二人を位置づけることができるが、社会がいかに成り立つかということに対する根本的な観点においても両者はその立場を共にしている。
ヨーロッパという「旧世界」とりわけフランスとの対比のなかで、「新世界」という、階級のない平等で民主的なアメリカ社会のあり方を鋭く観察し、記述したトクヴィルは、大衆社会について先駆的に論じた者としてもとらえることができる。例えば、のちの印象派の隆盛を予見するような、「ルネッサンスの画家たちは、通例、自分を超えるところやはるか昔の時代に彼らの想像力を大きく羽ばたかせる壮大な主題を求めた。われわれの時代の画家たちはしばしば、彼らが始終目にしている私生活の細部を正確に再現することに才能を傾け、自然界に原型があり余るほどある小さな対象をあらゆる側面から写している」(同、96頁)という洞察も大変興味深い。「印象派」の名前の由来となる、クロード・モネによる「印象・日の出」が描かれたのは1872年なので、この言葉が公刊されたのはそれよりも30年以上も先立っていることになる。大衆社会や、そこでの情動のあり方という観点においても、トクヴィルの議論には多くの示唆を見出すことができる。
(2022.11記)